第1部 現代社会と人間
第1章 人間とは何か
1 東西の人間観
■ 人間
人間とは、一般には人界に住むもの、すなわち動物および神と区別する語である。アイヌ語で「アイヌ」とは人間のことであり、他民族との接触がないなかで、自らを「アイヌ=人間」と呼んだのも自然なことである。古今東西にわたり、「人間とは何か」については古来多くの思想家が論じた。そこでは、人間が動物の一種であり、直立二足歩行し、道具を操ることは自明の事実であり、それ以上の特性をもって「人間とは何か」を規定しようとしたのである。
■ 東西の人間観
【 西洋の人間観 】
古代ギリシャでは人間の特徴を理性に求めたが、その代表者はソクラテス、プラトン、アリストテレスである。スウェーデンの生物学者リンネ(1707~78)が人類をホモ-サピエンス(賢明な人間)と名付けたのも、ギリシャ思想を受け継いだヨーロッパでは、言葉を操り、論理的に思考する能力を持った存在としての人間という見方があったからである。
「知は力なり」と自然の因果関係を正しい知識でとらえるとき、技術を生み、自然を支配し人類の幸福が増進されると主張したベーコン(1561~1626)や、「人間は考える葦である」として、思考の優越性を説いたパスカル(1627~62)など、この人間が自然界の主人であるという対自然の考え方が、ルネサンスを経て産業革命というヨーロッパの近代につながっていったのである。
それ以外にも、道具を作り操ることに観点をおいた「工作人」、言葉に求めた「言語人」、宗教に求めた「宗教人」、根元的な生の営みを遊びにとらえた「遊戯人」などの緒論があるが、いずれも人間の特性の一面を物語っている。
しかし、人間は飢餓や戦争といった極限状態になると、人肉も食べ、殺戮も平気で行う利己的な存在であり、「人間ほど残忍な動物はいない」とも言われる。人間は「食肉類の特性をもつ霊長類」とも言えるのである。
【 インドの人間観 】
古代文明の発祥の地、インド、中国でも、「人間とは何か」について多くの思索が行われた。古代インドのバラモン教の聖典を「ベーダ」と言うが、その解釈の中から自然と人間の考察が深められ、「ウパニシャッド(奥義書)」が作り出された。「ウパニシャッド」で確立された業・輪廻転生・解脱の思想は、インドの思想・文化の中核となったばかりか、仏教とともにアジア諸民族に深く広い影響を与えている。インドのヒンドゥー教もバラモン教の教義に土着の民間信仰を吸収して大きく変貌したものを指している。そして、ベーダの神々の中には、帝釈天や弁才天のように日本で今日でも崇拝されているものもある。
古代インドの考え方は、「人間は苦なる存在」ととらえる点にあり、それを前世で行った行為(=カルマ、業)ととらえるバラモン教、いろいろな欲望に執着する心(=煩悩)と考える仏教という違いがあるが、宇宙の普遍的な真理<バラモン教では「ブラフマン(梵)」、仏教では「ダルマ(法)」>を悟ることで苦から解放されるとする点は共通である。
つまり、人間を「知情意」を持つ存在と言うなら、「人間とは何か」について「知=理性」に求め、自然の因果関係を知り技術の発展させることに人間の幸せを求めた西洋と、「情意」の世界に求め、「知」ではなく自然の因果関係を悟り(=解脱)、自然と一体化すること(=梵我一如)で人間の幸せを求めたインドという違いが浮き上がってくる。
【 中国の人間観 】
古代中国についてみれば、それは「天」の思想に行き着く。この「天」 とは自然界の秩序や法則であり、やがて人の心に内在する道徳を意味するようになる。これをはっきりさせたのは孔子である。その後、孟子の性善説、荀子の性悪説という議論を生むが、人間の心に備わる善への可能性を否定したものではない。孔子後で言えば、無差別平等の兼愛を説いた墨子、無為自然、この世のものは差別なくすべて等しい価値を持つ(=万物斉同)と説いた老子・荘子であろう。
しかし、共通するのは、「天=大自然の秩序・法則」ととらえ、その「天命」に従うことが人間の幸せになるとする点にある。それは、個人の「仁」や「礼」の実践と、民を救う道(=経世済民)を君主による徳治政治に求めた孔子にも、我欲を捨て、自然と一体化した生き方(=道)を追求した老子・荘子(道家)にも共通していたのである。この老荘思想は仏教の思想と共通した発想があり、それが中国人が仏教を受け入れる精神的土壌を作ったとも言える。それ以外にも春秋・戦国時代(繕8世紀~前世紀)には、法家(韓非子)、兵家(孫子)など諸子百家と言われる様々な思想家を生む。
インドに比べて現実を見つめる現世主義が濃厚である。祖先の霊は子孫が供養すれば、子孫に幸福を与えるという信仰はあったが、前世・来世という考えは仏教伝来まで生まれていない。なお、中国の「礼」の思想は祖先の霊を供養する儀式から生まれたと言われている。
■ 人間とヒューマニズム
【 社会的動物としての人間 】
個体としての人間は弱い。しかし、実際の人間は決してか弱い存在ではなく、武器や火の使用や集団で獲物を追いつめる知恵や罠など、人間は多くの動物たちにとって脅威であった。
それは、人間は家族を基本単位としながらも、他者と共同して社会を作り、集団として行動する習性を備えていたからである。また、共同行動のための言語を発達させ、人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果、すなわち文化を次世代に受け継がせることができる唯一の種だったからである。これが、「人間は社会的動物である」と言われる由縁である。
文字の有無によって人間の社会は未開と文明に分けられてきたが、文字もまた、口承では伝えきれない多くの情報を次世代に伝える道具の一つである。人間は人間の作った社会のなかで育ち、生きるための言語や技能を習得し、その社会特有の形で教育を受ける。人間は一定の社会に適応する価値観をもつように期待され、生活も社会の文化の影響を受け、着衣も強制される。つまり、社会とは、そこを離れて人間は生きていけない「人間的自然」なのである。
【 人間とヒューマニズム 】
人間ほど残忍で利己的な動物はいないといわれながらも、他方で、社会的動物である人間は、日常的に他人に尽くし、弱者を扶助し愛護するなど利他的にも行動することができる唯一の動物である。多くの動物では老いて生殖能力のないものは死んでいくが、子供や老人は社会の庇護により生存し、老人の知恵と経験をその社会に十分に生かすこともできる。そこにヒューマニズムの根源の姿をみいだすことができる。
ヒューマニズムは個体としての人間が生まれながらに備えた資質ではなく、人間社会がもつ相互扶助の本質から生まれたものなのである。ヒューマニズムを一言で言えば、「認め合い・助け合い・分け合う」心であり、人間の共同社会が生み出したかけがえのない文化である。インドの狼に育てられた少女の例を挙げるまでもなく、狼の育てられた人間の子は、狼の野生のまま育つのである。
ところが、私たちが住む現代社会よりも、現代人が「未開部族」とさげすむ部族社会の方が、今でもはるかに助け合い、分け合う社会であり、病者をいたわり、老人を尊敬し、また感情豊かに、自然と共生しながら生活している事実は何を意味しているのだろうか。私たちが豊かな消費生活を手に入れる反面で、また多くの心の豊かさを失ったことを、今もう一度、思い起こす必要があるだろう。文化の豊かさは、物質面の豊かさからだけ測ることはできないのである。
例えば、日本には、古来、神社のお祭りに使われる「ひょっとこ」の面があるが、面の顔かたちでわかるように知恵遅れの男を表している。この「ひょっとこ」の語源は「ひおとこ(火男)」であり、当時の原始社会では、きわめて大切な火を守る仕事を分担していたことを教えている。その社会では、老人も子供も障害者もそれぞれの役割を持ち、社会全体で守りあい、助け合って生きていたのである。